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《東英壽:李之亮箋注《歐陽修集編年箋注》的問題點(diǎn)》由會員上傳分享,免費(fèi)在線閱讀,更多相關(guān)內(nèi)容在教育資源-天天文庫。
1、『比較社會文化』第17號(2011)7~16BulletinoftheGraduateSchoolofSocialandCulturalStudies,KyushuUniversityvol.17(2011),pp.7~16論文李之亮箋注『歐陽修集編年箋注』の問題點(diǎn)についてOnProblemsofLiZhiliang'sOu-yangXiuJiBianNianJianZhu2010年11月2日受付,2010年12月3日受理東 英壽HidetoshiHIGASHIキーワード:歐陽脩,李之亮,歐陽修集編年箋注,???箋注,編年 『
2、詩本義』は全集と別に刊行されるのでそれを除けば、?。?,はじめに歐陽脩の死の翌年には、周必大らの編纂した全集には見 北宋の歐陽脩(1007~1072)の全集に箋注を付けた、られない『帰榮集』一巻が存在し、周必大らの全集に見李之亮箋注『歐陽修集編年箋注』(一)~(八)は、2007年られる『居士外集』二十五巻、『書簡』十巻がまだ存在し12月に巴蜀書社より出版された。ていなかったということがわかる?,F(xiàn)在の『歐陽文忠公 そもそも歐陽脩の全集は、南宋の周必大(1126~集』の構(gòu)成に照らし合わせると、周必大らは全集の大部1204)らが紹熙二年
3、(1191)から慶元二年(1196)までの分について行狀に見られた『居士集』や『易童子問』など六年間をかけて編纂し、『歐陽文忠公集』百五十三巻とのまとまりを変更することなくその中に取り込んでいたしてまとめられ、今日に伝わっている。その百五十三巻ことが明らかとなる。歐陽脩の死の翌年に既に存在しての構(gòu)成は次の通りである。いた作品集は、彼が生前に目を通し、整理していた可能性が極めて高い。たとえば、『居士集』五十巻については、『居士集』五十巻、『居士外集』二十五巻、『易童子問』周必大が「歐陽文忠公年譜後序」(『平園続稿』巻十二)の三巻、
4、『外制集』三巻、『內(nèi)制集』八巻、『表奏書啓四中で、「居士集五十巻、公所定也」と述べるように、歐六集』七巻、『奏議集』十八巻、*『雑著述』十九巻、『集陽脩自身が編纂したものであり、『外制集』三巻、『內(nèi)制古録跋尾』十巻、『書簡』十巻。集』八巻、『帰田録』二巻、『集古録跋尾』十巻等もやはり⑴歐陽脩が確実に生前に整理したことがわかり、これら?。弘j著述』十九巻の內(nèi)訳は、『河?xùn)|奉使奏草』二巻、『河歐陽脩が生前に整理、編纂していた作品集については、北奉使奏草』二巻、『奏事録』一巻、『濮議』四巻、『崇周必大らはそのまとまりを変更することなく取
5、り入れて文総目敘釈』一巻、『于役志』一巻、『帰田録』二巻、『詩『歐陽文忠公集』百五十三巻を編集したと言える。話』一巻、『筆説』一巻、『試筆』一巻、『近體楽府』三巻?!〗窕亍⒗钪潦悉稀簹W陽修集編年箋注』(一)~(八)の中で、周必大らの編纂した『歐陽文忠公集』百五十三巻 これを、歐陽脩の死の翌年(熙寧六年、1073)に呉充に収録される作品全てに箋注を施し、作成年を指摘してによって作成された、次の行狀と比較したい。いる。しかし、それらの箋注や編年には極めて多くの問題點(diǎn)がある。本稿では『歐陽文忠公集』百五十三巻全て 嘗著易童子問三巻
6、、詩本義十四巻、居士集五十巻、に論及することはできないが、『居士外集』二十五巻部帰榮集一巻、外制集三巻、內(nèi)制集八巻、奏議集十八分(『歐陽文忠公集』巻五十一~巻七十五に収録)につい巻、四六集七巻、集古録跋尾十巻、雑著述十九巻。て、以下『歐陽修集編年箋注』の校勘、箋注、編年、構(gòu)成の四方面から検討したい?! Lて易童子問三巻、詩本義十四巻、居士集五十巻、帰榮集一巻、外制集三巻、內(nèi)制集八巻、奏議集十八 2,校勘について巻、四六集七巻、集古録跋尾十巻、雑著述十九巻を著はす?!±钪潦悉?、『歐陽修集編年箋注』(以下、本書と言う)7東 英壽
7、で校勘に使用したテキストについて、その前言に次のよ 『居士外集』巻八「會聖宮頌」の「伏惟皇帝陛下以神聖うに記述する。至徳」の「至徳」について、本書では「原本“至”字為墨丁、拠周本補(bǔ)」という??堡ⅳ?。確かに原本である四部叢 本書採用的底本是四部叢刊影印元刊本、參考四庫全刊本では墨丁であるが、周必大本(周本)である國家本書本、慶元二年周必大編刻本和清嘉慶二十四年歐陽も墨丁であり、同じく周本である天理本を調(diào)べてみる衡刻本。と、ここは空格となっており、「至」字が挿入されているのは清代の歐陽衡本である。従って、ここの??堡稀笒嚒 ”緯?/p>
8、が採用した底本は四部叢刊影印元刊本で、四庫周本補(bǔ)」ではなく、「拠歐陽衡本補(bǔ)」と記述すべきである。全書本、慶元二年周必大編刻本と清の嘉慶二十四年 『居士外集』巻十三「河南府重修浄垢院記」の「嘆其空歐陽衡刻本を參考とした。闊」という記述について、本書では「原本“闊”