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《伊呂波歌現(xiàn)代日文解釋》由會(huì)員上傳分享,免費(fèi)在線閱讀,更多相關(guān)內(nèi)容在應(yīng)用文檔-天天文庫(kù)。
1、1行め「いろはにほへとちりぬるを」の解釈まずは「にほへど[ニオエド]」。これは動(dòng)詞「にほふ[ニオウ]」の逆接條件のかたちで、「…けれども、…のに」って意味の逆接の確定條件と、「…ても」の意味の逆接の恒常條件のばあいがあるけど、ここは恒常のほうだろう?!袱饯ΔいΔ栅Δ摔筏郡趣长恧?、けっきょくはいつもつぎのようなことになっちゃう」ってことだ?!袱摔郅铡工我馕钉犀F(xiàn)代語(yǔ)とちがってて、ここじゃもともとの意味でつかわれてる。「におう」っていえば、鼻で感じるもののことだけど、最初は目でみることについていわれてて、「色がき
2、わだつ、あざやかに色づく」ってことで、とくに赤とかのあざやかな色のことをいってた?!袱摔郅铡工巍袱恕工铣嗤沥我馕钉巍袱耍ǖぃ工牵ǔ啶晤喠悉趣啶ど韦长趣扦猡ⅳ耄ⅰ袱邸工稀阜R穂」の「穂」とかとおんなじで「目だつとこ、ぬきんでてあらわれてるとこ」、それから「ふ」は動(dòng)詞をつくる語(yǔ)尾で、「赤い色が目だつようになる、色が赤くうきでる」って意味だったらしい?!袱沥辘踏搿工稀?dòng)詞「ちる」の完了のかたち「ちりぬ」の連體形。つぎに「を」があるから連體形になってるんだけど、その「を」は間投助詞(または終助詞)の「を」だろ
3、う。感動(dòng)?詠嘆をあらわしてる。間投助詞の「を」はおもに上代のことばだけど、平安時(shí)代にもつかわれてた?!袱颉工悉长ΔいΔ栅Δ摔猡趣猡趣祥g投助詞で、それが接続助詞とか現(xiàn)代語(yǔ)の「を」みたいな格助詞にもなった。ここは接続助詞ともかんがえられるかもしれない。この1行めは、「花は色あざやかにさいても、けっきょくはちってしまうものだ」って訳せるだろう?!袱颉工蚪泳A助詞ってかんがえるなら、「ちってしまうのだから」とかになるのかもしれないけど、それだとつぎの行とあんまりうまくつながらないとおもう。それとか、內(nèi)容的には「ちって
4、しまうように」ってやりたくなるけど、「を」にそういう意味はない?!袱颉工驘o(wú)視して、ただ「ちってしまう」でやめてる訳もあるけど、それだってわるくないかもしれない。2行め「わかよたれそつねならむ」の解釈「わがよ」は「わたしの世」だけど、「わたしがいきてるこの世」ってことだろう。「たれ」は「だれ」。近世になって現(xiàn)代語(yǔ)とおんなじ「だれ」になった?!袱尽工犀F(xiàn)代語(yǔ)にもあるけど、強(qiáng)調(diào)の意味で、これをうける用言は連體形になる。いわゆるかかりむすびだ。この「わがよたれぞ」はちょっと問(wèn)題があるみたいで、「わがよ」っていうのがそ
5、もそもヘンだってはなしもあるけど、それよりも「ぞ」がおかしい。この文章だったら「たれか」がふつうのいいかただ。かなを1回だけ全部つかうってことで、ところどころ無(wú)理がある。「ならむ」は、動(dòng)詞「なり」の推量とか意志とかをあらわすかたち「ならむ」の連體形。っていっても、終止形とおんなじだけど。連體形になってるのは、そのまえに「ぞ」があってかかりむすびになってるからだっていうのは、うえにかいたとおり。ここの意味は意志じゃなくて推量のほうで、「だろう」ってことだ?!袱胜椁唷工习k音が「ナラム→ナラン→ナラウ→ナロー」っ
6、てかわってって、現(xiàn)代語(yǔ)の「なろう[ナロー]」になったんだけど、これは現(xiàn)代語(yǔ)としては意志の意味がふつうになってる。かきことばとか、ふるい感じのいいかたなら「なろう」を推量の意味でつかうこともあるけど、たいていは助動(dòng)詞をつかって「なるだろう」っていってる。2行めは全體としては反語(yǔ)で、古文の定番の訳しかたをすれば、「わたしがいきているこの世で、だれがいつまでもかわらないだろうか。いや、そんなひとはだれもいない」って感じになるだろう。「たれぞ」だから「だれが」って訳したけど、この訳だとちょっとぎこちない感じがするか
7、もしれない。でもそれは原文そのものがそんな感じだからだ、…ってことにしておくことにして、これが「たれか」だったら、「だれか、いつまでもかわらないひとがいるだろうか。いや、いない」とでもなって、こっちのほうが訳としてもなめらかになるとおもう。3行め「うゐのおくやまけふこえて」の解釈「うゐ[ウイ]」は、いろはうたにでてくるただひとつの漢語(yǔ)で、漢字でかけば「有為」だ。これは仏教用語(yǔ)で、サンスクリット語(yǔ)のsa?sk?ta[サンスクリタ]の翻訳語(yǔ)なんだけど、「有為」って訳されたこのことばの意味は「因(原因)と縁(條件
8、)によって生じたもの」ってことだ。ちなみに、[サンスクリタ]には「洗練された言語(yǔ)、純正な言語(yǔ)、完成された言語(yǔ)」って意味もあって、俗語(yǔ)に対する雅語(yǔ)のことなんだけど、これがそのまんま言語(yǔ)の名まえになってサンスクリット(Sanskrit)語(yǔ)っていわれてる。「有為」は要するにこの世とかこの世の現(xiàn)象のことをいってて、それは因と縁がむすびついてできあがってるだけのものだから、一時(shí)的なものにすぎない。そんなたよりにならないこの